スポーツ報知の記事より

全仏 4強 佐藤次郎さんは渋川高校ソフトテニス部出身。

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 テニスの全仏オープンで、錦織圭(25)が2日、日本人選手として82年ぶりに準々決勝に進出したが惜しくも敗れた。錦織の前に8強入りの偉業を果たしたのが1931年と33年に準決勝へ進出した佐藤次郎だ。佐藤は今もなお日本人史上最高の世界ランキング3位、史上最多の5度の4大大会ベスト4に輝きながら、26歳の若さで海上に投身自殺した。母校の群馬県立渋川高校のソフトテニス部には今も「コート整備から一流に」という佐藤の哲学が息づいている。


 佐藤の母校・渋川高校。放課後のクレーコートは、ローランギャロスの赤土とは反対に青みがかっていたが、美しく手入れが行き届いていた。

 1908年、群馬県北群馬郡子持村で生まれた佐藤は22年に渋川高(旧制渋川中)に入学。幼いころから親しんでいたソフトテニス部に入部し、最初に取りかかったのが石ころだらけだった校庭の整備だった。改良を加えテニスコートに生まれ変わらせた。以後、毎日、小石ひとつひとつを拾ってから練習を始めたという。

 ソフトテニス部の羽鳥龍郎部長(3年)は「佐藤先輩がコート整備に励んでおられたというのは知っていたので、まず整備からしっかりやろうと心掛けています」と話す。全員でトンボをかけ、ブラシでならし、雨が降れば土を足してローラーをかける。佐藤のテニスへの姿勢は卒業から約90年が経過した今も後輩たちに受け継がれていた。

 早大進学後に硬式テニスを始め、才能が開眼。31年の全仏、32年の全英・全豪、33年の全仏・全英で5度のベスト4に残り、世界ランキングは最高3位まで上昇。33年全仏では英国の英雄であるフレッド・ペリーを破って世界を驚かせ、パワーあふれるフォアハンドで「ブルドッグ・サトウ」の異名で恐れられた。

 ところが、国家や国民から世界一を期待される重圧、決勝の舞台までたどり着けない限界に苦しみ、日本女子初のプロテニス選手となる岡田早苗と婚約した直後の34年4月、デビス杯出場のため渡航中の船がマラッカ海峡を通過中、船上から身を投げて自殺。絶頂期の死は国民を驚かせ、今も多くの謎を残したままだ。

 渋川高の正門付近には、かつて自らもプレーしたコートを見守るように佐藤の彫像が置かれている。資料室には愛用した5本の木製ラケット、写真、トロフィーなどを所蔵。ラケットはボロボロに破れたガットが当時の偉業を伝えている。

 佐藤の魂を受け継ぐ後輩たち。部を代表し、今月5〜7日の関東大会にダブルスで出場する須田大樹君(3年)は「偉大な先輩がいるということを誇りに思いながら戦います」。同じく塩野谷瑞己君(1年)も「まだ1年ですが、今の力を出し切りたいです」と活躍を誓った。(北野 新太)


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http://www.hochi.co.jp/topics/20150602-OHT1T50193.html








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